熊本県熊本市の新築・分譲マンション「ザ サンズ熊本城公園」|熊本城の歴史

熊本城の歴史


幾つもの歴史の舞台となってきた熊本城、
その地の記憶を辿る。

加藤清正が「熊本城」を築城

1607年(慶長12年)、「隈本城」や「千葉城」があった茶臼山と呼ばれた台地に、加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じて名城「熊本城」を完成させました。加藤清正27歳の時でした。築城以後、熊本城は400年にわたる日本のさまざまな歴史の重要な舞台となっていきます。加藤清正は、なびく戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水工事や水田の開発などに力を入れました。その工事の功績は大変大きく、現在でも現役で利用されているものもあります。

2代にわたった熊本城主の加藤家が改易された後、細川忠利が肥後に入国しました。細川家は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、戦国の世の中をくぐり抜けてきた大名家です。細川忠利は宮本武蔵を客人として招き、宮本武蔵が晩年を熊本で過ごしたことは、有名な話です。

熊本城下町の中心地「新町」

「新町」は、加藤清正の熊本城築城の年に「城下町」として整備された区域です。新町は、町全体が塀と坪井川で囲まれ四方を新一丁目門、新三丁目問、高麗門などの堅牢な櫓門で固められていました。加藤清正は坪井川を改修して水掘とすることで町人町・商人町である新町・古町発展の基礎としました。また、新町は城下町の中心地として政治・経済の一翼を担う重要な地域でした。新町には特権的な地位にある商人が多数居住していました。

熊本城は「西南戦争」の舞台に

1877年(明治10年)2月におきた「西南戦争」で、熊本城は50日あまりにもおよぶ籠城戦の舞台となりました。城内には熊本鎮台司令長官、谷干城(たにたてき)率いる鎮台兵3,500人が籠城して薩摩軍13,000人と戦ったことで、熊本城は近代戦を経験した城となり、また、難攻不落の堅城であるということを、名実ともに実証しましたが、開戦直前に天守と本丸御殿一体が炎に包まれました。

城下町の発展

1877年(明治10年)の西南の役において、新町・古町は激戦区となり町の多くを焼失しました。西南の役後、新町では県会議事所・警察・区役所・熊本郵便局などの主要施設が建てられ、卸・小売業、料亭、通りには朝市などが立ち、熊本の中心として賑わいを見せるようになりました。1891年(明治24年)の鉄道の施設によって町の西側の塀が埋め立てられ、1929年(昭和4年)には、市電の開通によって道路が拡張され「電車通り」が、新町の主要な通りとなりました。新町は、都心にあることから、街並みは大きく変化しましたが、明治時代から昭和初期に建築された「歴史的建造物」が江戸時代の町割りの中に現存し、今もなお、特徴的な景観をつくりだしています。

天守再建と今後

2016年(平成28年)4月に発生した「熊本地震」によって熊本城では「宇土櫓」や「東十八間櫓」などの重要文化財建造物、「天守閣」や「飯田丸五階櫓」などの復元建造物の大部分が被災しましたが、天守閣は、震災復興のシンボルとして最優先で復旧作業が進められ、2021年(令和3年)3月に完全復旧しました。また、2019年(令和元年)には「熊本交通センター」跡地にバスターミナルを中心に、映画館やさまざまな飲食店が入った大型商業施設「SAKURA MACHI Kumamoto(サクラマチクマモト)」がオープンしました。熊本城周辺地区は、熊本城を中心に都市が形成されてきた歴史的背景から、歴史・文化の中枢となる地区であり、歴史・文化の蓄積は、今後さらに観光や都市機能、熊本の景観イメージの形成に重要な役割を果たしていくでしょう。

※掲載の周辺施設写真は2022年4月に撮影したものです。

※掲載情報は、2022年10月現在のものです。